藝術評論

2016-12-16
郭少宗論 -- 日本版畫家 宮山廣明 2016
郭少宗論                        -- 日本版畫家 宮山廣明      2016
                           (轉載自 Hiroaki Miyayama  Blog 7/24/16)
 
 郭少宗は万能の天才である。
Jason Kuo is almighty genius.
郭少宗是全能的天才。
 
 ルネサンスの時代レオナルドに代表されるように万能の天才が高く評価された。その伝統からか、今日イタリアをはじめヨーロッパの多くのアーティストが様々な素材を使いこなしている。
In Renaissance age the almighty genius like Leonardo was appreciated. Today by this tradition Italian and many European artists master many o of materials. 
在文藝復興時期,李奧納多是全能天才的代表也獲得很高的評價。承襲這個傳統,在今時今日的義大利和許多歐洲藝術家使用各式各樣的素材。
 
 東洋の文人も万能である。文人とは文の人、つまり詩人であり哲学者である。文人のたしなみとして詩を読み、絵を描き、箏を奏で、碁を嗜む。それらはすべて詩に収斂し、それを視覚化するための絵に昇華する。
Oriental literary men are almighty. Literary men are poet and philosopher. As a literary men’s taste they sing poem, paint, play a harp and enjoy go game. All of them give inspiration to poem, and then it becomes painting.
東洋的文人也是全能的。文人是詩人也是哲學家。文人們以讀詩、繪畫、彈琴、下棋為嗜好。然後將詩詞與之融合,再將它轉化成畫面使繪畫昇華。
 
 西洋の万能は、技術における万能である。まさに物質「文明」の西洋の必然である。東洋の万能は無用の長物ばかりで技能は必要でも技術を求めてはいない。まさに精神「文化」の東洋の必然である。
European almighty is for technic. It’s necessity of European material civilization. Oriental almighty is useless. It requires skill, not technic. It’s necessity of Oriental spiritual culture.
 西方的萬能是工藝的萬能。在重視物質文明的西方。對東洋文化來說,這種萬能是不需要這些的;當然技術也很重要,但東洋文化最重要的就是精神。
 
 郭少宗は、誰もが知るように画家である。しかし、彼のアトリエを訪れるとクラリネットがあり、チェロがあり、胡弓があり、他にもあったかもしれない様々な楽器が転がっている。せっかく遊びに来たんだからいっしょに合奏しよう、太鼓を打つくらいならできるだろうと無理やり合奏をさせられる。山に付き合えと言われる。山に入ると笛を吹き始める。
Jason Kuo is a paint artist as many people know. But When we visit his studio, we find many kind of music instruments like clarinet, cello, Chinese violin, etc. “You are welcome, so let’s play music! You can play drum, can’t you?” When we go to a mountain, he suddenly plays a flute.
郭少宗是無人不知無人不曉的畫家。但當我第一次拜訪他的工作室時,我們發現各式各樣的樂器;有單簧管、大提琴、二胡等等樂器。難得你們來,我們一起合奏吧 ! 就這樣打起手鼓一起合奏了起來。當我們一起去山裡時,他便開始吹起竹笛。
 
 何年も前、私のアトリエに来た時には紙と筆をよこせと言う。日本の私のアトリエを訪れた喜びを詩に詠い書にしたためる。
Many years ago when he came to my studio, he asked me a rice paper, brush, Chinese ink. He made a poem to express his happiness to come to my studio and wrote it as calligraphy.
 忘記幾年前,他來到我的工作室時,跟我要了紙和筆。用書法寫下一首詩表達來到我日本工作室的喜悅。
 
 郭少宗は現代の文人である。
Jason Kuo is a contemporary literary man.
郭少宗是現代文人。
 
  東洋のとくに中国の文化のありかたの伝統を軽々と引き継いでいる。私なども日本の伝統を引き継ぐ意識で制作を続け、伝統的な生き方を志向はしていても現実にはなかなか徹底できるものではない。台湾、あるいは中国にはそのようなアーティストは他にいるのだろうか。少なくとも日本では考えられない。
He receives the Oriental, especially Chinese cultural tradition lightly. Me, too, I’d like to work to receive tradition and I want to live by traditional way. But it’s very difficult to completely. In Taiwan or in China is there an artist like him? At least in Japan there is no one.
他承襲東洋文化和中國傳統文化,且不經意的持續著。我也想如此,想依循日本傳統的意識持續在製作,但以現實面來說,用傳統的方式來做是不可能的。在台灣或中國有幾個藝術家和他一樣?至少在日本有一位。
 
 それでは郭少宗の絵画は文人画だろうか。
If he is a literary man, his work is literati painting?
所以郭少宗的作品就是文人畫嗎?
 
   いっけん、彼の絵は北宋の職業画家たちの風景に繋がるように見える。山々の存在感を表す技術の高さは、アマチュアを標榜する文人画のレベルをはるかに超えている。
At first sight his work is look like a landscape painting by professional artist of Northern Song Dynasty. His very high technic to express existence of mountains is much higher than literati paintings that the artists declare amateurism.
  乍看之下,他的畫作就像是北宋時期的職業畫家一樣,看見繁華的風景。山峰的繪畫技巧很高明使山的存在很突出。他的畫作已超越業餘文人畫家的水平。
 
 北宋の職業画家とは何が違うか。北宋絵画が求めているのは、まさに目の前に実際の風景が存在するかのように見えるリアルさである。見事に再現された風景からは、とうぜん美が伝わる。美しいがゆえに、時にはその絵のなかを散歩したいと思わせてもくれる。しかし、あくまでねらわれているのは、美しい自然の存在を再現することである。そこには画家の感情の表現は限りなく少ない。范寛の絵の前に立つ時、美しさ、荘厳さには圧倒されるが、なかに入っていきたいという気持ちには私にはなれない。
What is deference between Kuo and professional artists in Northern Song Dynasty? In Northern Song Dynasty wants reality just like people feel real landscape in front of him. From realistic landscape painting we feel beauty. As it is beautiful, sometimes we want to walk in the painting. But their purpose is reproduction of real landscape. There is few emotion of the artists.    
When I stand in front of Fan Kuan’s painting, I’m removed strongly by its magnificent beauty. But I don’t want to enter into the painting.
北宋的職業畫家有哪裏不同呢?北宋的繪畫追求的是寫實的風景,在寫實的繪畫中感受其中的美麗,讓人覺得好像自己走在風景之中。但是,他們的目標是讓風景再現,這樣畫家的情感就變少了。當你走在范寬的畫面前,你就會被它的美和莊嚴給震懾住。但我不想走入那張畫中。
 
 南宋の馬遠や夏圭の絵の前に立つと、考える前に絵のなかに自分が入っていることを発見するだろう。私は中国美術に関してはまったくの素人ではあるが、この絵のなかに見る人を引き込むことを目的としていることが南宋画、日本では文人画と同義にとらえられているあり方だろう。
When I stand in front of Ma Yuan’s or Xia Gui’s painting of Southern Song Dynasty, I find I’m in the painting before thinking. I’m a completely amateur about Chinese art. But I understand that Southern Song Dynasty style painting intended that people want to be inside of the painting. It’s the same as literati painting in Japan.
當我站在南宋馬遠跟夏圭的畫作面前,我便發現我在想前面的畫。我是一個對中國美術不太熟悉的人。但根據我的了解,南宋的繪畫讓人想要走進畫中,這個和日本的文人畫非常相似。
 
 絵のなかに散歩をさせる豊かな森を作る。シューベルトが晩年にたどりついた、バッハはずっとわかっていた境地。これを美術で実現できた画家は西洋美術の歴史には存在していない。まあ、音楽で目指すものと美術が担ってきたものとの違いと言ってしまえばそれまでだが。
Making a rich forest in a painting. It’s the state that Franz Schubert attained in his last year. It’s the state that Bach could know in whole life. In European art history there is no artist who could attain this state. It might be said that music and art want attain different state in Europe. 
畫出想在裡面散步充滿森林的畫作。這是舒伯特晚年才達到的境界,也是讓巴哈追逐的領域。在歐洲的藝術史上沒有人可以參與其中。也可以說,音樂和美術擔任的角色並不相同。
 
 しかし東洋の美術には当たり前なものとして存在していた。それは特別に南宋だけに限らない。ひとたびその魅力を発見してしまったら、これ以降は多少流行の影響があって浮き沈みはあるものの、連綿と伝わってきた伝統の柱になっていると言っていいだろう。私は今この原稿を中国の美術史の画集を見ながら書いているのだが、ついつい眺めいってしまって時間を忘れてしまいそうになる。元の時代の倪瓚、王蒙、馬琬。明の時代ではこの文人画の空気を感じさせない風景画を探すことのほうが難しいだろう。
But in Oriental art history it was very common. It’s not only in Southern Song Dynasty. Once artists found this charm, it became an important tradition that continued to today, even if it was ups and downs by trends. Now I’m writing this text, seeing an art book of Chinese art history. I often forget to write, forget time and see in complete rapture. Zi Zan, Wan Meng and Ma Wan in Yuan Dynasty. In Ming Dynasty it’s difficult to find a landscape painting that we can’t feel as literati painting.
但是東洋的美術這是很常見的,不僅僅是在南宋。當藝術家發現這個魅力,他便成為了重要的傳統,更持續到今天。即使依然會受到些許流行趨勢的波動。現在我邊寫這篇文章,邊看中國藝術史的典籍,我經常忘了寫、忘了時間。元朝的倪瓚、王蒙、馬琬。在明朝的文人畫是很難找到富有空氣感的風景畫的。
 
 郭少宗の絵には感情がある。山々はリアルな山であると同時に、郭少宗そのものであることに異を挟む人はいないだろう。郭少宗は、中国の、文人画に対立するリアルな表現の伝統を文人画の側に吸収したと言ってもいいかもしれない。こういったことを達成できた背景には、近代の美術教育の成果があると言っていいかもしれない。美術大学では、どのような方向に進んでも困ることがないよう、基本的な技術を身につけることを学生たちに課している。技術を持ったインテリ(文人)が生まれる。
In Jason Kuo’s painting there is emotion. His mountains are not only realistic and also himself. Jason absorbed tradition of realistic technic into another tradition of literati painting. The reason he could do it why there is modern education of art. In the art university students must get basic technic not to be troubled in any kind of art. New literary man who has technic was born.
郭少宗的繪畫是富有感情的。 他的山不僅是寫實,也是他自己。郭少宗吸收寫實工藝的傳統,成為文人畫的另一個傳統。我想他能做到這樣的表現是因為生活背景的關係,也是近代美術教育的成果。在大學時學生必須要遵循傳統工藝,而不是其他風格。擁有技術的文人就這樣誕生了。
 
 文人画は、文人たちが遊べる理想の空間を描こうとするものである。郭少宗の山々は彼が遊ぶための空間を形作っている。火山を標榜するだけに熱いエネルギーに満ち溢れている。厚く塗り重ねられた絵の具の層はそのまま熱をこめた山の地面になる。あの暑さ(厚さ)は怒りかもしれない、感情の爆発かもしれない。しかし、彼の山には悲壮さや悲しみはない。怒ってはいるかもしれないが、出来上がる山々は明るく楽しげである。郭少宗の暑さ(厚さ)に耐えられる仲間には遊べる空間と言えるだろう。
Literati painting is painted to make an ideal paradise where literary men enjoy. Jason makes a paradise for himself. As he mentions a volcano, his painting is full of hot energy. Thick layer of paint becomes a land of mountain with fever. The thick fever might be angry or explosion of emotion. But in his mountains there is no pity, no sadness. He might be angry. But his mountains are cheerful and merry. If you can receive his thick fever, the mountains are paradise for you, too. 
文人畫是畫一個理想的烏托邦,讓人想要進入的地方。郭少宗的山就是讓人想要在裡面遊玩的空間。他的火山,也充滿熱氣的能量。用厚重的顏料塗在山和陸面上。用這個熱(厚重)讓人感受到怒氣,情感也不斷地爆發。但是,他的山沒有遺憾、也沒有悲傷。他有可能是憤怒也有可能是充滿生機與歡樂的。如果你可以感受到畫面上的溫度,這個山就是你的天堂了。
 
 ただ、近代以前の文人画と決定的に違うのは、仲間といっしょに遊ぶための空間とは意識されていないことである。あの山々は彼自身のためだけに存在している。その意味では、郭少宗はやはり現代の画家であると言わざるを得ない。近代の罠にはまってしまっていると言ってもいいかもしれない。しかし、この時代を真摯に生きようとすれば、孤独な探索は必然的に生まれる回答ではあるのだが。
 For Kuo his mountains aren’t paradise to enjoy with friends. For him these mountains exist only for him. By this meaning he is a contemporary artist. I can say that he was caught by modern trap. But lonely search is necessity, if he lives seriously today.
不過,近代以前的文人畫的差異是,讓人想要在那個空間裡面遊玩的意識與否,那個山為自己存在的。用這個意思說,郭少宗果然是現代畫家;我可以說,他是被現代化的陷阱給抓住了。但是,活在這個時代,孤獨的探索是必然的。如果他想要認真地生活的話。
 
 近代は個の自由を促してくれた。深い内省は近代の成果である。ただし、それには大きな代償を払わなければならなかった。自由を得る代わりに払った代償は孤独である。
Modern age offered individual freedom. Deep introspection is fruits of modern age. But we had to pay big cost. The cost was solitude.
現代的體系倡導個人的自由,深刻的反省是現代努力的成果。但是巨大的代價是,得到了自由,取而代之的是無限的孤獨。
 
   シューベルトのピアノ・ソナタ21番。シューベルトの最後のソナタである。死の数ヶ月前に書かれている。私が若い頃はシューベルトのソナタ自体の録音が少なかったが、近年はブームのように多くの演奏家が演奏し、録音をしている。とくに21番が多いことには隔世の観がある。この曲は、シューベルトのピアノ・ソナタのなかでは別格のものである。私自身、この曲がどういう曲であるのか、60歳近くになるまで理解できなかった。
Schubert’s Piano Sonata No.21. It’s the his last sonata. It’s was written a few months before his death. When I was young, there were a few records of his sonatas. But recently many pianists play and record Schubert’s sonata, especially No.21. I feel as if we are living in another age. This sonata is special in his sonatas. I myself couldn’t understand what it is until near sixty years old.
舒伯特鋼琴奏鳴曲第21號,是他最後的奏鳴曲。它是在他去世前幾個月寫的。我年輕的時候,有一些他作曲的唱片。但是最近很多鋼琴家演奏和錄製舒伯特的奏鳴曲,特別是21號。我覺得如果我們活在另一個時代,舒伯特的這首奏鳴曲會是他獨特的奏鳴曲。我自己弄不明白這是什麼,直到現在已經六十多歲了。
 
 20番までの曲のなかには、21番よりも美しい曲はいくつもある。20番までのなかには、21番よりも生々しい感情が表現されている曲がいくつもある。
Until No.20 there some pieces that are more beautiful than No. 21. Until No.20 there are some pieces that have more vivid emotions than No.21.
在20號以前有一些作品比21號更漂亮;直到20號也有一些作品比21號有更生動與情緒。
 
 では演奏家たちはこの21番をどのような曲として演奏してきたのか。他のソナタと同様に、あるいは自然に継承されたものとして、美しく。最後の交響曲8番と同様に、特別にスケールの大きい曲として。私は正直、それらの演奏には満足してこられなかった。美しいことを目指すなら18番や13、14番のほうが繊細さで勝っていると思っていた。立派な演奏もリヒテルのものなどを聴くと納得をしないわけにはいかないのだが、それは演奏する演奏家の姿を映す鏡としてのものだろう。
ケースバイケースである。同じ形をした理想的な演奏というものは存在できない。ピアニストの清水和音があるラジオ番組で、この曲は人前で演奏する曲じゃなくて自分の部屋で好きなように弾く曲だといったニュアンスのことを言っていた。たぶんそれが正解なんだろう。ght it’s the best Waka of his life. The last phase he arrived is “I don’t know myself. It’s OK”. And he walked and walked. There are many words like walk, on foot, stroll, promenade, etc. His ideal world was wandering.
西行有一首和歌:「富士山步道煙徑已經隨風消失了。我不知道我
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